歴史紀行 第6回 ~龍原12坊伝説!
コロナ緊急事態宣言も解除され、まだまだ感染に注意しながらも徐々に元の生活に
戻り始めておられる頃かと思います。(‘_’)
さて、広島市中区寺町にあるかの有名な寺院、浄土真宗「本願寺別院」仏護寺は、
もとは祇園の武田山山麓にあったのをご存知ですか? それどころか現在寺町にある
他の8つのお寺ももともと祇園にあったのです!
長禄3年(1459年)、戦で亡くなった人々の鎮魂のため寺を作ろうと考えていた
銀山城主 武田義信は、ある日山上の城から武田山南山裾の大きな岩に2羽の白鷺が舞い降り、
翌日もまた同じ岩に舞い降りるのを見て、「吉兆」とこの地に寺を建てることを決めました。
この大岩は龍岩(たついわ)と呼ばれ、龍が固まって岩になったとの伝説で辺り一帯を
龍原(たつばら)と言いました。現在の祇園北高校の辺りです。
義信は甲斐(山梨)から一族の僧 正信を迎え、ここに仏護寺を建立。その後この地は発展し、
最盛期にはその門前の左に甲斐から招いた甲斐6坊、右に地元の安芸6坊、合計12もの寺の
伽藍が建ち並んでいたそうです。なんと荘厳な眺めだったことでしょう!
これらのすべては1541年の銀山落城で灰塵に帰してしまいましたが約80年間この地は
安芸の人々の聖地として魂と信仰の拠り所だったのです。祇園北高校造成で現在ほぼ痕跡は
ありませんが、龍岩は今も当時のままの姿でかの地に横たわっています。
ちなみに焼失した「龍原12坊」、その後 安芸を治めた毛利、福島、浅野氏らによって
別地に移され復活。仏護寺ほか寺町に8寺(報専坊、善正寺、圓龍寺等)、五日市に1寺(光禅寺)、
地元安佐地区にも3寺(蓮光寺〔長束〕、正伝寺〔相田〕、品窮寺〔可部〕)とすべて再建され、
脈々と現在までその系譜を伝え続けているのです。
いや~、歴史ってホントに面白いですね(^^♪ (つづく)
(郷土作家 つかさまこと)